がんばらない

                                      「がんばらない」

 先日福岡県で女子駅伝の大会があって、ひとりの選手が、レース中に骨折して走れなくなり、中継地点の200メートル手前から四つん這いになって進み、やっと中継地点までたどり着いたというニュースをテレビで観ました。このことについては、世間では「よくそこまでがんばった。あっぱれ」という賞賛の言葉と「ちょっとやり過ぎ。なぜすぐに止めさせなかったのか」という非難の言葉が入り交じっているようです。いずれにしてもそのニュースをテレビで観て、わたしは「がんばる」という言葉が思い浮かびました。「がんばる」という言葉を、わたしたちはよく使います。「がんばりましょう」とか「がんばってください」などとあいさつのように使います。「がんばる」という言葉の意味は、手元の辞書によると「困難にめげないで我慢してやり抜く」(大辞泉)ということだそうです。駅伝の女子選手もそういう意味ではまさに「頑張った」ということなのでしょう。しかし、以前、病気で入院している人たちにとって、「がんばってください」ということばを掛けられるのは辛いことだという話を聞いたことがあります。「がんばって」という何気ない気持ちで発した言葉がときには人に必要以上にプレッシャーを掛ける場合があります。この駅伝のニュースを観て、わたしは、イエス様は果たして「がんばって」という意味のことをおっしゃっただろうかと考えさせられました。イエス様は、「悔い改めよ」「互いに愛し合いなさい」ということはおっしゃいましたが、「頑張れ」ということはおっしゃらなかったのではないでしょうか。「頑張る」ということは、自分が、自分の力で何かを成し遂げるということが基本になっているように思えます。イエス様の時代に「頑張れ」と言っていたのは、律法学者と呼ばれる人たちだったのではないでしょうか。彼らは、律法を完璧に守ることによって神の救いが得られると考え実践していました。しかし、世の中には律法学者たちのような人たちばかりではありません。頑張ろうとしても頑張れない人たちもいます。その人たちはどのようにして救いに与れる(あずかれる)のでしょうか。イエス様は「神の律法を完璧に守れないなら救いには与れない」とはおっしゃいませんでした。「神の国は、幼な子のような者たちのものである」(マルコによる福音書10章13節以下)とおっしゃったのです。幼い子どもたちは、律法を知りません。それを守ることもできません。彼らができることは、両親や大人たちが注いでくれる愛を受け入れるだけです。大人たちの言うことを素直に聴いて、そのあとに付いていくだけです。神の国に入れるのは、救いに与れるのは、何かを立派に成し遂げる人ではなく、空(から)の手で神の愛と恵みを受け、そしてイエス様に信頼し、イエス様の後に従って生きる者が神の救いに与れるのです。神様は、その愛する御子イエス・キリストを十字架にかけられてまでわたしたちを愛してくださり、わたしたちに恵みを施してくださっています。その神の愛と恵みを感謝して受け入れ、主イエス・キリストを信じ、従う者が救いに与ることができるのです。わたしたちが神の救いに与るためには、自分の力に頼って「頑張る」必要はないのです。

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