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先日開催された伝道開始100周年記念コンサート・講演会の記事が、地元紙の「苫小牧民報」に掲載されました。写真の撮影と取材は、同紙の石井翔太記者です。


がんばらない

「がんばらない」

 先日福岡県で女子駅伝の大会があって、ひとりの選手が、レース中に骨折して走れなくなり、中継地点の200メートル手前から四つん這いになって進み、やっと中継地点までたどり着いたというニュースをテレビで観ました。このことについては、世間では「よくそこまでがんばった。あっぱれ」という賞賛の言葉と「ちょっとやり過ぎ。なぜすぐに止めさせなかったのか」という非難の言葉が入り交じっているようです。いずれにしてもそのニュースをテレビで観て、わたしは「がんばる」という言葉が思い浮かびました。「がんばる」という言葉を、わたしたちはよく使います。「がんばりましょう」とか「がんばってください」などとあいさつのように使います。「がんばる」という言葉の意味は、手元の辞書によると「困難にめげないで我慢してやり抜く」(大辞泉)ということだそうです。駅伝の女子選手もそういう意味ではまさに「頑張った」ということなのでしょう。しかし、以前、病気で入院している人たちにとって、「がんばってください」ということばを掛けられるのは辛いことだという話を聞いたことがあります。「がんばって」という何気ない気持ちで発した言葉がときには人に必要以上にプレッシャーを掛ける場合があります。この駅伝のニュースを観て、わたしは、イエス様は果たして「がんばって」という意味のことをおっしゃっただろうかと考えさせられました。イエス様は、「悔い改めよ」「互いに愛し合いなさい」ということはおっしゃいましたが、「頑張れ」ということはおっしゃらなかったのではないでしょうか。「頑張る」ということは、自分が、自分の力で何かを成し遂げるということが基本になっているように思えます。イエス様の時代に「頑張れ」と言っていたのは、律法学者と呼ばれる人たちだったのではないでしょうか。彼らは、律法を完璧に守ることによって神の救いが得られると考え実践していました。しかし、世の中には律法学者たちのような人たちばかりではありません。頑張ろうとしても頑張れない人たちもいます。その人たちはどのようにして救いに与れる(あずかれる)のでしょうか。イエス様は「神の律法を完璧に守れないなら救いには与れない」とはおっしゃいませんでした。「神の国は、幼な子のような者たちのものである」(マル…

伝道開始100周年記念コンサート・講演会

本日恵みの内に伝道開始100周年記念コンサート・講演会を開くことができました。予想を超える参加をいただきとてもうれしかったです。伝道開始100周年を記念するにふさわしいコンサートと講演会でした。一年以上前から準備を進め、9月8日に開く予定でしたが、残念ながら直前に地震が発生し、中止のやむなきに至りました。しかし、そのような困難を乗り越えて、きょうとても素晴らしい演奏と講演を聴くことができたことは教会員にとりまして望外の幸せです。加えて、コンサートの中で讃美歌を聖歌隊の皆さんと来場者全員で声高らかに歌うことができ、とてもうれしく感激いたしました。これからは御心に適って教会の新たな歴史をつくるべく、福音の宣教と教会形成にますます励んで行きたいと思います。奉仕してくださった青山学院大学の伊藤先生を始め、指揮者の那須先生、オルガニストの身﨑先生、聖歌隊の皆さんに心から感謝いたします。